検査の苦労ばなし
顕微鏡標本作製よもやま話
著者:
稲生富三
ページ範囲:P.416 - P.417
昭和17年の10月から名古屋帝国大学医学部病理学教室に勤務した私の仕事は,病理解剖の材料から顕微鏡標本を作ることが主であった.戦争の末期には資材もなくなり,顕微鏡標本を作るのも困難になった.古くなったり,染め上がりが悪かったりで,不要になった顕微鏡標本を煮沸し,スライドグラスを再生するのも日課であった.煮沸し過ぎると,アルカリ成分が析出してすりガラスのようになるし,煮沸が足りないと,カバーグラスやカナダバルサムが十分に取れず,再生の目的が達せられなくなるので,煮沸の加減はおろそかにできなかった.陸軍から配給のカバーグラスを取りに,岸和田の蛸地蔵に行ったこともある.汽車が奈良駅に着くころには,必ずと言ってよいくらい空襲警報のサイレンが鳴って停車し,避難した.このように苦労して入手したカバーグラスであったが,品質は今ほど良くなかったし,種類も18×24mmのみであった.しかし,とにかく貴重品であった.ヘマトキシリンの入手も困難になり,蒸した黒豆の皮で代用するという文献を追試したのもこのころのことである.キシレンを買いに大阪の十三や,人の話で松本に行ったこともある.その夜,空襲警報のサイレンが終わるか,終わらぬうちに爆撃の音を聞いた.翌日キシレンを探して歩いたが,どこにも売ってなく,むなしさのみが残ったことを,今でも松本へ行くたびに,泊った旅館を見ては思い出す.
社会保険中京病院に移ったのは昭和23年3月である.開院して3か月目,病床数55で,合思うとごく一部の検査項目から始まった.月日の経過とともに検査の項目や件数が多くなり,病理解剖も行うようになった.確か,昭和30年代になってからのことと記憶しているが,病理解剖の材料で作った切片を,マイヤーのヘマトキシリン液で染め,流水中で色出ししても,核の色がきれいな青藍色でなく,薄紫色となったり,時には細胞質と同じような色にしか染まらないことに気づいた.顕微鏡標本は,後になって追跡調査などをすることがあるから,永久標本として保存するのを常としている.だから,染めればよいというのではなく,いかにきれいに染め上げるかということであるため,核染色の検討を行った,まず,マイヤーのヘマトキシリン液で染める時間を加減したが,色に濃淡があるのみで同じような傾向であった.そこでヘマトキシリンを吟味することにした.