検査の苦労ばなし
検査技師になって20年
著者:
金城幸永
ページ範囲:P.768 - P.769
私は1957年(昭和32年)7月"三級細菌技術職,コザ病院勤務を命ず,技手補に補する,4等級1号給を給する"ということで3,100B円の琉球政府立コザ病院試験室勤務の公務員になりました.コザ病院とは今の沖縄県立中部病院の前身で,当時は沖縄が米国の統治下にあり,一つの国の系体をとり琉球政府と呼ばれておりました.日本語を共通語とし,日本本土で使用している文部省選定教科書により教育がなされながら,通貨は異なり,本土と自由に交流することができず,そうかといってアメリカ合衆国と自由に交流することもできない変則的な状態でした.医療,公衆衛生に関する行政指導はすべてUSCAR(United States Civil Adrministration of the Ryukyu Islands琉球列島米国民政府)によってなされておりました.琉球政府は民政府の配下にありながらも本土法に倣い独自の医療関係立法がなされ完璧とは言えないが,一応法大系が整備されておりました.
コザ病院は,一般病床180床,結核病床76床の開放性病院として運営されており,24時間救急と不採算部門を担当することで,結核に重点がおかれ,肺結核の外科手術が中心的業務でした.診療科のほとんどは病院周辺の契約医により診療がなされ,また,入院管理がなされておりました.病院試験室(検査室)とは,病院を利用する患者の一切の臨床検査をサービスするシステムであります.当時開発されている臨床検査については,すべて実施に移すよう努力するのが技師の役目とされ,個人の能力あるいは試験室自体の能力を最大限に発揮するよう先輩たちに指導されたものです.新しい技師は先輩たちに追い付くための努力を重ねたものです.