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雑誌目次

論文

臨床検査49巻3号

2005年03月発行

雑誌目次

今月の主題 私と臨床検査―先達の軌跡 巻頭言

「私と臨床検査―先達の軌跡」に寄せて

著者: 河合忠

ページ範囲:P.223 - P.225

1945(昭和20)年に第二次世界大戦が終結してからちょうど満60年を迎えた.戦後の混乱から立ち上がり,医療システムは米国医学の影響を大きく受けながら近代化への歩みを始めた.臨床検査界での最大の変革は中央臨床検査室制度の導入であり,医師と検査技術員が専従して臨床検査サービスを担当し始めた.やがて,中央検査室制度が医療界に急速に普及し,検査技師の教育制度および身分も確立し,それよりもかなり遅れて臨床検査医についても専門医としての身分が医学界で認知されるに至った.また,臨床検査に必要な機材については,臨床検査担当者の手作りで始まったが,欧米からの輸入に始まり,企業の努力によって国内での開発・生産が軌道に乗って,今や世界市場へと羽ばたいている.臨床検査に関する出版物では,学会誌に加えて,商業雑誌としてわが国の先便を切ったのは医学書院が1956(昭和31)年に発刊した「臨床検査」であり,50年になろうとしている.しかし,このような発展の黎明期を支えられた多くの先輩諸氏は既にこの世を去られ,当時の苦労と努力は想い出話として語られるに過ぎない今日となった.

 近年,戦後大きく進歩,発展してきた臨床検査の歩みについては主要な関連学会や職能団体などによって記念史が発刊されている1~4).しかし,これらの多くは団体としての活動であって,個々の先輩がどのように考え,どのように発展に努力してきたかについてはほとんど触れられていない.筆者は古希を迎えた2001(平成13)年10月14日の誕生日に,こうした発展の歩みを「河合 忠が語る臨床病理史―世界の中の日本―」と題して出版した.この中で,日本の臨床病理/臨床検査の歩みを筆者の主観を通して記録したつもりである.一臨床病理医として目にし,感じたことであって極めて限定的であり,所詮,大きな象の体のごく一部,“目につき易い長い鼻”(あるいは尻尾であるかもしれないが)を眺めたに過ぎなかった.その他にも,多くの先輩の方々がそれぞれに別の体験を通して感じられたことがあるに違いないと考えてはいたが,ごく一部の方を除いては,なかなかご意見をお聞きする機会もないままとなっていた.この度,「臨床検査」編集委員会が,「私と臨床検査―先達の軌跡」を主題として企画され,こうした先輩の方々に依頼して,それぞれの体験を執筆していただくことになった.臨床病理/臨床検査の黎明期と成長期を支えてこられた多くの先輩がご存命でおられるが,今回は,紙面の都合で大変残念ではあるが,ご承諾を得られたごく限られた先輩諸氏にご執筆いただく結果となった.ご執筆いただいた内容は多彩であって,それぞれに異なった視点から臨床検査にまつわる想い出を書かれていて,大変興味深く拝読させていただいた.それらの内容が臨床検査の歩みの中でどのような位置づけになるかを読者,とりわけ若い世代の方々に理解していただければと考え,大変僭越ではあるが,筆者が書き残した「河合 忠が語る臨床病理史―世界の中の日本―」の目次を付記した(表1).目次の章・節に加えて,必要に応じて本文中の見出しを抜粋し,また注釈も記載させていただいた.「臨床検査」誌の前編集主幹としてのわがままをお許しいただきたい.

私と臨床検査

臨床検査室でのいろいろな経験

著者: 三輪史朗

ページ範囲:P.227 - P.230

1.はじめに

 私の大学卒業は1951(昭和26)年で,1年のインターンののち国家試験を受けて医師免許証をもらい,患者を受け持った時代であり,この頃中央検査部はまだできておらず,入院患者があると,病室で病歴を取り,診察をしてどういう病気かの見当をつけ,次に検査として,耳たぶから採血し,メランジュールと計算盤,ザーリー計を使って赤血球数,白血球数,ヘモグロビン濃度,顕微鏡を使って好中球,好酸球,リンパ球,単球の比率を調べ,血沈を測り,尿に蛋白,糖があるかを調べ,レントゲン写真は教室(私の場合,東京大学冲中内科)のレントゲン技師に頼んでとってもらい,それらを病歴にまとめ上級医師のチェックを受けながら診断(ないし仮診断)をつけ,治療(処方箋を出す・注射をするなど)をはじめた.教授回診,助教授回診はそれぞれ週1回あり,重症入院,患者様態悪化のときは,朝早くに教授回診があった.重態の時は当直室に泊り込むことが多かった.冲中先生からは患者の徴候のわずかな変化を見逃さないようにすることを教えられた.

 こんな時期から10~20年の間に東大病院は整備され中央臨床検査部は樫田良精先生が教授となり,検査部は立派になった.機器が整備され,スペースが増え,検査技師が増え,検査部の医師も増えた.中央検査部の発展の仕方は個々の病院で特殊性に応じて差があった.

 ほぼどんな検査も検査伝票にチェックすればできるようになった昨近になると,最近の臨床医には視診,打聴診,触診,といった基本的な診断手技をきちんと身に付けていることの大切さ,逆にいえばこれをおろそかにしないようにすることを強調したい,と同時に検査成績は時間をかけて読み,異常値を見逃さないように注意したい.

医学・医療の要としての臨床検査

著者: 糸賀敬

ページ範囲:P.231 - P.233

筆者は,旧制長崎医科大学を1952(昭和27)年に卒業した.当時自分が受け持った入院患者の臨床検査は,検尿,検便などの一般臨床検査はもとより,赤・白血球数算定,ヘモグロビン濃度の測定を含む末梢血液一般検査,骨髄穿刺検査,血糖値測定,残余窒素測定(その当時尿素窒素の測定法は確立されていなかった),基礎代謝率の測定,心電図検査などのすべてを,ほとんど自分自身で実施することが普通であった.

 当時の医学部は,戦前に建てられ原爆によって壊滅的な被害を受けた後に,一部修復された4階建ての建物に内科学講座があった.その半地下室の研究室の片隅に,臨床検査室が設けられ諸検査を実施していた.その時期には,検査データーを教授回診日の前日までに揃えておかねばならなかった.ただし,以前から梅毒血清反応検査は皮膚科学講座に,病理組織学的検査は病理学講座に依頼するのが慣例であった.

臨床検査の進歩と共に

著者: 黒川一郎

ページ範囲:P.234 - P.237

1.はじめに

 私は1964(昭和39)年から1995(平成7)年まで札幌医科大学中央検査部(後に臨床検査医学講座)に勤務した.この間,医学生・道立衛生学院の検査技師学校生徒の教育,臨床血液検査技術の検討,改良の仕事をした.それと共に,1980(昭和55)年から1995(平成7)年まで北海道医師会・日本医師会の活動にも携わった.この間に,印象強く思った事柄について述べたい.

 私が医師になった1950年代半ばは,血液検査を含め臨床検査はすくなくとも大学病院においては,大体受持医によって行われた.しかし1950(昭和25)年度末頃から,全国的に大学病院をはじめ中央検査部が設立し始め,当大学でも1957(昭和32)年に開設され,漸次検査が医師の手を離れるようになった.

昔の臨床検査と今の臨床検査

著者: 遠山博

ページ範囲:P.238 - P.242

1.はじめに

 本題をいただいて当初は当惑したが,結局お受けすることにした.それは部分的ではあるが自叙伝的になり,私は今まで恥しくてそのような文を書いたことがなかった.躊躇するところが大きかったが,思い切って今回初めて書かせていただくことにした.

私と免疫血液学的検査

著者: 福岡良男

ページ範囲:P.243 - P.245

私の一生に大きな影響を与えたのは父・福岡五郎であった.父・福岡五郎は東京大学の医学部を卒業し内科に入局したが,免疫学に興味をもち,法医学教室の三田定則教授の指導をえて免疫学で学位をえたせいか,子供の私に,いつも,免疫学について語ってくれた.

 私が東北大学の医学部に入学したとき,父は将来臨床医学を専攻するにしろ病理学を勉強しておかねばならないと私に語った.私は医学部2年生のときから4年生の卒業するまで病理学教室の学生研究生となり,木村男也教授から病理学について厳しい指導を受けた.

中央化の初期,人,器具,試薬皆不足

著者: 石井暢

ページ範囲:P.246 - P.248

1.はじめに

 現今の臨床検査は各分野全体にわたり,疾病の診断,治療効果の判定に欠くべからざる重要な役割を演じているのみならず,健康診断にも絶対に欠かせない分野であり,仕事内容は極めて高度化しまた多岐にわたり,最新のDNA分析のようなものや,また各種免疫反応などその機械化,自動化が,一方新しい分析機器,手技などの将来一層の発展が期待されているので,担当者の方々はおおいに希望をもって研究勉強していただきたいものである.

臨床病理の一期生―その歩みと言葉

著者: 丹羽正治

ページ範囲:P.249 - P.252

1. はじめに

 私は以前ではとても予想できない高齢にいつしか達し,最近米寿を迎えた.その私が半世紀以上も前に病院検査室に勤務していた頃に,今日の臨床検査医学,その前身の臨床病理学が誕生した.

 当時の同業のほとんどの方々は既に故人に成られたので,私は生き残りの臨床病理の一期生といえる.以下の昔の歩みを介して,読者の方々に当時の検査の実態を垣間見ていただくと同時に,ただの懐古を超えて,現在の臨床検査の進め方にも通用するヒントを1つでも発見していただけたら,私の最大の役割を果たせたことと思う.

“引き込み線”の奮闘

著者: 宮井潔

ページ範囲:P.253 - P.255

1.臨床検査での自分史―三つ子の魂

 今回本特集の原稿依頼があったとき,題名をどうしようかと迷ったが思いきって―“引き込み線”の奮闘―とした.これには少々説明が必要である.私が“正式”に臨床検査の分野に顔を出し始めたのは,大阪大学(阪大)医学部を卒業してから14年経った1969(昭和44)年に内科から中央臨床検査部(検査部)へと移籍してからのことである.当時私と同世代には河合忠先生はじめ臨床検査の専門家,いわば本格派(本線)の方々が大勢活躍しておられた.それに対し私はいわば傍流の新参者だったのである.「宮井先生は“引き込み線か支線”のような立場だけれど,まあ頑張ってくださいね」とO先生から励まされたのを今でも忘れない.しかし以下追々紹介するように,これが私の臨床検査への情熱のモチベーションとなったと同時に現実での苦闘の始まり,そして果たせぬ夢への未練ともなったのである.

 ところで私は臨床検査に関し決して“引き込み線”とは思っていないのでその証拠をお示ししよう.1955(昭和30)年に医学部を卒業した直後の私は当時の制度でインターン生だった.阪大ではその前年に全国の国立大学に先駆けて初めて検査部が設置されていたので,暇を持て余していた私はここに顔を出した.そこには血清蛋白分画のチセリウス装置などいろいろ珍しい機器が並んでおり検査技師の手伝いなどをしながら楽しく過ごした.翌年第一内科に大学院生として入局した私は,甲状腺の研究を始めることになった.阪大では初めてなので何も無いところから,専門診療に必要な検査を立ち上げるためまずラジオアイソトープ(RI)を使った甲状腺131I摂取率測定装置を自作した.次いで検査部に出向して甲状腺ホルモン〔当時は血清蛋白結合ヨウ素(PBI)〕測定のセットアップに悪戦苦闘した.医学部出身者の悲しさで分析化学に弱く,ある薬大出身の新人検査技師(実は後に神戸薬科大学臨床化学教授となられた渡辺富久子先生)を師と仰いで奮闘した.今から考えるとこの方法はヨウ素イオンの触媒反応を利用したμg/dlオーダーの当時としては難度の高い超微量分析で,これをマスターしたことは私の臨床化学技術の基礎としてよい経験になったのである.さらに私が最初に学会発表した演題が「甲状腺機能検査としてのTSH test術式の検討」で1958(昭和33)年の第1回日本臨床病理学会(現臨床検査医学会)近畿支部総会でのことだった.“三つ子の魂百まで”,私が“引き込み線にして引き込み線にあらず”という証明を終わる.

臨床検査の発展を夢みて

著者: 屋形稔

ページ範囲:P.257 - P.259

1.はじめに

 私は当初内科臨床の場に身をおいて内科学会功労会員にもなったが,その流れの中で臨床検査の世界に入り検査専門医も名乗ることになった.その間実に半世紀以上に及ぶことになる.

 このたび本誌特集として「私と臨床検査」の題で,印象に残ったこと,感動したこと,苦労したことなどを綴って欲しいということである.ふり返れば臨床検査の歴史は苦労の歴史といってよいが,それに伴った楽しいことも多々あり,苦楽は紙一重であることも知った.

 そのあらましについては「日本臨床検査医学会50年の歴史」という座談会記録(臨床病理49巻12号,2001年)に詳細が語られてある.また「その人に聞く」というインタビュー(アニムス誌2001年春号)に「病気と生命の本態に迫る臨床検査を求めて」と題して核心に触れている.できればそれらもご参照願いたいが,上記の趣旨に応ずる形で順を追って述べてみたい.

草創期の免疫血清分野での標準化

著者: 菅原孝雄

ページ範囲:P.260 - P.262

1.はじめに

 昭和40年代に入って,抗原抗体反応を利用した免疫学的診断法が急速に進歩し,その鋭敏度,特異性が優れていることから多用されるようになった.

 当時,私は国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)の免疫血清部門に在籍し,梅毒血清学検査法などを担当していた.梅毒血清学的診断法は,当時としては臨床検査のなかでも重要な部門であった.手技の標準化はもちろん,診断薬キットの精度を検定することが業務として行われていたが,そのために必要なものは標準血清であった.患者血清をプールし,一定量の抗体を含む抗血清を製造し,これを自家参照標準品として用いていた.このような関係から,私は臨床検査の標準化に興味を抱かざるを得なかった.

臨床検査と過ごした34年―その足跡と貴重な体験

著者: 佐々木禎一

ページ範囲:P.263 - P.266

1.札幌医大基礎の微生物学教室より中央検査部へ

 1951(昭和26)年私は北海道大学理学部(生物化学専攻)を卒業して,直ぐ札幌医大微生物学教室に助手として任官した.ここでは最新の分析技術(paper chromatography)を駆使して,短期間中に面白いような研究成果を挙げ,1958(昭和33)年より2年間University of Illinoisで研究する機会を得た.これに先立ち医学博士を,次いで帰日後理学博士を取得して,結構張切っていた.当時の業績の1つ“Pasteurella (Yersinia) pseudotuberculosis感染症の免疫化学的研究”で,Pasteur研究所に招かれて講演をし,更にW.H.O.から研究依頼を受けた.

2.中央検査部(中検)への移籍の相談を受ける

 この状況下「中検のlevel upのため,生化学部門の助教授のacademic positionを新設したので移籍しないか」との相談を受けた.これは当時の情況からみると左遷かとも思われたし,医学の分野に来た私としては更に封建の牙城―臨床部門への移転には,かなりの決心が必要であったのは確かであった.

私の臨床検査のあゆみ

著者: 斎藤正行

ページ範囲:P.267 - P.273

1.女性検査技師との始めての出会い

 私が始めてお会いした女性検査技師は1944(昭和19)年に橋本昌子さん(写真1)で,今は病で伏して居られるが,現在の東京文化学園,当時は女子経済専門学校という名前で呼ばれていたところの御出身である.そこの顧問が聖ルカ国際病院院長の橋本寛敏先生であられた関係で,検査室の技師はほとんどそこの出身であった.私は学生時代に生化学教室に出入していた関係で臨床研修より検査に興味があり,臨床化学より血算とか一般検査,細菌,病理解剖を橋本さんから手ほどきしていただいた.山川英子さんという女性技師も居り,彼女は後に米国に渡り,大学に進み,そこの細菌学教授にまでになった.こんな関係から臨床病理懇談会の創立に際し,橋本院長が東京文化学園の森本理事長に懇請し日本最初の検査技師養成機関,「医学技術研究室」を1952(昭和27)年に開校させた.入学資格は専門学校卒業生で,修業年限1年,10名の女子が合格した.第1回生の1人に相賀静子さんがおられる.埼玉県立医療衛生短期大学教授にまでなられたが,その後どうしておられるのか,ここ数年前から平成16(2004)年度日本臨床検査医学会名簿にも一般会員のトップに名前が載っている.

 私は開校時,既に日野原重明先生の推薦で米国Duke大学病院への留学が決っていたので半年検査総論を講義し,実習は国立東京第一病院で行われた.教室は校舎の正門横の体育場で関係図書も実習器具も何もなく,私の蔵書とアチコチの検査機械店を訪問し検査器具を寄付していただいた.そのとき使用した教科書が今でも手許にある「簡単な検査法」という医学書院から出版されていたNURSE’S LIBRARYのNo.44,1951(昭和26)年(写真2)であり,所沢綾子女史の担当.校長はラジオドクターの近藤宏二医学博士であった.1955(昭和30)年に高卒で進学できる女性だけの2年制の各種学校「東京文化医学技術学校」に変わった.それ以前には軍に衛生兵の養成校があったが男だけであり,それらの方が終戦後は国立・民間の病院に就職し,検査担当の主力となっていた.獣医や薬学出身の方も少なからず参入され,これらの人々が初代の技師長になっていたが男が主であった.男女ともに共学の技師養成校は1957(昭和32)年,北里研究所が開設した.国の衛生検査技師法が施行されたのは1958(昭和33)年である.文献によると1949(昭和24)年から国立東京療養所では作業病棟の結核回復者を検査室にて実習生として検査技術を習得させており,わが国の臨床化学開拓者,東大理学部出身の故北村元仕博士もその1人である.4年制の大学教育は1962(昭和37)年,北里研究所創立50周年記念事業として北里学園が誕生し,北里大学衛生学部を開校したのが第一号であり,大学院修士課程が1967(昭和42)年に,博士課程が1975(昭和50)年に認可されている.もちろん男女共学である.この学園は最近,医療衛生学部と改称された.衛生技術学科には微生物学,免疫学,病理学,遺伝子検査学,血液情報解析学,臨床細胞学,臨床生理学,臨床化学.産業衛生学専攻には公衆衛生学,環境衛生学,衛生学,精神衛生.リハビリテーション学科には理学療法学専攻,作業療法学専攻,言語聴覚療法学専攻,視覚機能療法学専攻.医療工学科には臨床工学専攻,診療放射線技術科学専攻など幅広い学科となっており,多くの国立・私立大学がこれを真似るのを創立している.

薬学と臨床検査

著者: 田村善藏

ページ範囲:P.274 - P.276

1.芽生え

 1955(昭和30)年ころのことと思うが,東京大学薬学部の薬品分析化学教室で,石館守三教授が九州大学に栄転された百瀬勉教授を交えて,教室の将来について討論会を開かれた.私が「これまで薬学の分析化学は医薬品と環境物質を対象にしてきた.これからは医学と協力するために生体成分を対象にしてはどうか」と申し出ると,百瀬教授は「自分はそれを考えて糖の分析化学をやっている.この分野の研究は1人や2人でできるものではない.おおいに同志を集めてやるべきだ」といわれた.それから教年後,東京大学分院の中央臨床検査部の斎藤正行講師が石館教授に臨床化学への参加を要請された.石館教授は「非常に大切な分野であるが自分にはやる暇がない.田村がやるだろう」といわれた.

2.臨床化学研究事始とうつ病

 1961(昭和36)年4月,定年退官された石館教授の後任に就任した私は,臨床化学に役立つ分析化学を目指したが,何分生まれて始めての分野であったので,とりあえず石館教授が残された糖類の分析化学と南原利夫助教授のステロイド研究を続け,α-ケト酸やピリドキサールの新しい蛍光分析法を開発して行った.

臨床検査とは?

著者: 臼井敏明

ページ範囲:P.277 - P.279

1. はじめに

 臨床検査医学会,臨床病理学会の先達の努力によって,医療の現場に「臨床検査」が定着し,一般庶民にもこの言葉が日常語として用いられるようになった.医療における臨床検査の役割は,情報学および情報機器の発達に伴って,ますますその地位を高めていったことは周知の通りである.しかし,医師を始めとする各種医療職,患者の立場に立つ一般庶民,医療を管轄する厚生労働省などで,果たしてこの用語が同一概念として認識されているであろうか.私が医学部を退職し,看護学校に勤めるようになってから,現場の看護師,患者のもつ臨床検査の概念と,検査部内で認識していた概念との間にかなりの開きがあるように感じた.

 このような問題提起により,もう一度臨床検査の意味するもの,また医療の主体である患者の立場からこの問題を眺めてみたいと思う.

活躍する臨床検査技師

著者: 金井正光

ページ範囲:P.280 - P.281

純白で花弁の縁が縮れたシクラメンの大鉢(浦和にいる甥が毎年送ってくれる),上下に白とピンクに色分けされた中鉢(中検にいた技師からいただいた),真紅の小鉢(近くの元高校教師から診察のお礼に寄贈された)が浴室の窓際の棚に並んでまことに見事である.いつも4月頃まで目を楽しませてくれる大鉢のシクラメンを昨年は玄関に置いて枯らしてしまい切ない思いをしたので,今年は置き場所を変えてみた.厳寒のシクラメンの管理は難しい.

 現職時代,病院中検の筆者の個室には毎年贈ってもらったり,自分で買ったりしたシクラメンが置いてあったが,所栓素人の悲しさで,見事な花を咲かせ,長持ちさせるのに苦労した思い出が残っている.

臨床微生物検査―過去から未来へ

著者: 紺野昌俊

ページ範囲:P.283 - P.285

1. はじめに

 私が中央検査部(中検)の細菌検査業務に携わるようになったのは,1971(昭和46)年,帝京大学医学部に赴任してからである.しかし,臨床微生物とのかかわりあいは,東大分院小児科に入局以来のことで,当時恩師藤井良知先生(現帝京大学名誉教授)より与えられた研究テーマは「小児感冒における細菌とウイルスの関連について」ということであった.以来,半世紀に亘って臨床微生物と向き合ってきたことになる.歩んできた道を振り返りながら,臨床微生物検査の今後の在り方について言及していきたい.

私と臨床生理検査室

著者: 江部充

ページ範囲:P.286 - P.288

「臨床検査」編集室から「私と臨床検査」というテーマで執筆依頼を受けたとき,現役を退いて20年を超え,年齢的に物忘れもあり,あまり今の人達の役に立つようなことも述べられないと躊躇した.しかし執筆依頼者リストをみると,私より年輩の方が数名おられるようなので,敢えて依頼を受諾した.

 私が臨床検査医という立場で本格的に働いたのは,1958(昭和33)年国家公務員共済虎の門病院臨床生理検査部の開設準備の顧問から部長となり,1982(昭和57)年に60歳で定年退職するまでの約25年間である.

臨床検査部事始

著者: 仁木偉瑳夫

ページ範囲:P.289 - P.292

1.終戦の頃の臨床検査

 私は1947(昭和22)年医学部卒業で,戦中・戦後が私の青春時代です.われわれの年代の社会的な背景を振り返りながら,私と臨床検査とのかかわりを述べるスタートと致しましょう.

 学生時代の東京は食料が無く,毎日のように空襲があり,まともに授業などはできない状態でした.1945(昭和20)年3月10日の東京無差別大空襲では死者の総数80,794人! われわれ学生はそれぞれ独学・自習のようなことをやっておりました.私は生物学,物理学が好きで基礎医学の生理学から,臨床医学へ頭の切り替えができないまま過ごしておりました.内科の講義では「〇〇病;発熱する.発熱しないこともある」など,なんでこれが内科学,“学”と呼べるのか? 臨床医学に戸惑っていました.

私の臨床検査の研究を辿って

著者: 椎名晋一

ページ範囲:P.293 - P.295

私が東京医科歯科大学の内科医局に大学院生として入局した1954(昭和29)年には臨床検査部がなかったので,受持ち患者の検査はすべて医師自身が行った時代であった.これが国立大学に検査部ができた1970(昭和45)年まで続いたのである.したがって,患者に対する診療のための検査を行うとともに,臨床検査に関する研究を行う好機でもあった.

 「1954~1959(昭和29~34)年」

 私の大学院の博士論文の課題は1959(昭和34)年「脚気様症候群におけるベクトル心電図の臨床的研究」である1).当時,ベクトル心電計は市販されておらず,東京医科歯科大学第三内科の故佐野豊美助教授(後に教授)がアメリカから持参された機器をお借りして博士論文の研究を行うとともに佐野助教授のテーマの研究をお手伝いして研究発表を行ったり2),診療のためのベクトル心電図検査を行った.現在,ベクトル心電図は臨床検査技師の教育内容にも含まれているように心電図の波形の理解に重要な情報を提供している.

細胞病理学検査に携わって50年―過去,現在,将来へ

著者: 髙橋正宜

ページ範囲:P.297 - P.302

1.はじめに

 悪性腫瘍細胞を呼ぶ言葉によく異型細胞が用いられる.これは癌細胞も含めるが広く癌の疑いが濃いものを意味し,核クロマチン増量,核・細胞質比の増加,細胞質の塩基好性,核小体肥大と増加,異常核分裂,細胞の形と大小の不同などが細胞異型度の表示に用いられる.構造異型は正常組織との隔たりの大きさで表現される.超微構造について癌細胞の特異構造はなく,光顕的異型像に加えて細胞質小器官の発達の乏しいこと,形質の脱落の見られることである.一方,形質の保持は腫瘍分類の標識となっている.明らかな組織学的特長は浸潤性増殖の開始であり,非連続的増殖や転移像は決定的である.1950年代この事実を認識したうえであえて細胞診を始めることは無謀と思われて不思議はなかった.

 米国留学後病理医として最初の出発が東京鉄道病院という一般病院であったのは幸いであった.国鉄のセンター病院で腫瘍の病理検査は多いものであったこと,マイアミ大学ではHopman先生からはじめてパパニコロウ染色標本を見させられ(1957),赤,橙 黄,青緑,に染まる多彩な扁平上皮細胞に混じって大きな癌細胞を見出したとき,まさに万華鏡を覗いたような強烈な印象であったことは私を細胞診導入に駆り立てることになった.就職早々臨床検査科の新設を任せられており,後にリンパ球培養核型分析も取り入れて当時としては先端を行く病理検査室であったと思っている.先にマイアミ大学から帰国早々の河合忠先生が臨床化学,血液,特に血漿蛋白免疫電気泳動室を開設し1),臨床病理科の原型を発足出来たと考えている.“めくら蛇におじず”の意気で日本病理学会総会に“喀痰による肺癌の診断”を発表し病理学会の諸先輩から,ばらばらの細胞で癌の病理診断をするという無謀なことと,つよいお叱りを受けたことは今も記憶にあたらしい2)

 “To be, or not to be:that is the question”(Shakespeare).有名な言葉はまさにそのときの心境であった.

臨床検査部門中央化システム立ち上げの初期の頃から―臨床病理学,病理学,細胞病理学,臨床検査医学の統括

著者: 田中昇

ページ範囲:P.303 - P.312

1.はじめに

 本誌は現在創刊50巻を迎えようとしている.発刊時前後に編集者から種々相談を受けたことを記憶している.たまたま「癌の臨床」が昨年2004年に創刊50周年で私が第1巻に投稿し,途中の十数年間編集委員をしていた関係で50周年記念特集に癌病理学,細胞病理学について執筆を依頼された1).私は元来文献学者になりたくない,多数の他人の論文を読んで総説を書くようなぶんざいではないと,お断りしたが,是非にということで自己中心的な,自身がかかわったことが中心となってしまった.本稿も全く同様1949,1950(昭和24,25)年,母校東京医科歯科大学病理学教室で恩師太田邦夫先生に指導を受け,日赤中央病院,癌研究会(癌研)などに派遣され,1972(昭和47)年に千葉県がんセンター研究所に移転,その頃のことなどを中心に臨床病理,臨床検査,病院病理といった経験について述べたい.自由,随想的にという編集者の意向で,academic, scientificな内容でないことをお許しいただきたい.

恩師との出会いとその後

著者: 佐々木匡秀

ページ範囲:P.313 - P.315

検査室とのかかわりは,1961(昭和36)年7月のギックリ腰発症に始まりました.

 当時,医学部でインターン生であった私は,山口医科大学附属病院にあった臨床病理部の血液検査室で,7時50分頃,早朝の掃除をしておりました.

臨床検査,あの時,この頃

著者: 佐藤乙一

ページ範囲:P.317 - P.322

1.飢に活,“臨床検査”の創刊

 本誌,「臨床検査」が世に出たのは1957(昭和32)年のことだった.白黒写真4ページ付,60ページ足らずの雑誌ではあったが,臨床検査情報には乏しい頃だったから多くの技術者が飛びついたのはいうまでもない.

 この頃はまだ第二次世界大戦の疲労が色濃く残っていた.だが,そこは日本人.東海村の原子炉にわが国でははじめて火がともされた歴史的な幕明けの年でもあったのだ.

検査センターの果たしてきた役割

著者: 藤田光一郎

ページ範囲:P.323 - P.325

検査センターの一例として,エスアールエルの果してきた役割をふりかえってみたいと思います.

 設立以来,私共は学問的にも,学術的にも,技術的にも,病院検査室が臨床検査の中核であり,私共はその補完機能であるとの位置づけをふみはずしてはいけないと,心してきました.

私と臨床検査の50年

著者: 瀬戸四郎

ページ範囲:P.326 - P.329

今年は戦後60年ということで,そのような記事やテレビ報道に接することが多い.私はちょうどその敗戦の日から10年目の1955(昭和30)年に当時はまだ少なかった検査薬の専門メーカー((株)シノテスト)に入社し,1991(平成3)年までは開発と製造を中心に現場にどっぷりと浸り,更に2000(平成12)年までは業界団体である(社)日本臨床検査薬協会で行政や関連諸団体との接触など都合46年間,検査業界の実態を体験してきた.そんな立場から年商3,000億円といわれる現在の検査薬市場の歩んだ足跡をたどってみたい.

 現在は「体外診断用医薬品」あるいは「臨床検査薬」と呼ばれているが,あの頃は「診断試薬」という呼称が普通で,細菌検査用の培地や梅素検査用キットなどが主な製品であった.

今月の表紙 臨床生理検査・画像検査・15

小児

著者: 鯉渕晴美

ページ範囲:P.220 - P.221

 超音波検査は痛みを伴わず放射線被曝の心配もないため,小児に対する検査として第一選択にあげられる検査の1つである.今回は特に検査されることの多い腹部領域の4疾患をとりあげた.

1. 肥厚性幽門狭窄症(症例1)

 1か月女児.生後1か月頃より哺乳直後の嘔吐が頻回に見られるようになり,体重も減少したため当院来院.来院時血中Na 139mmol/l,K 4.5mmol/l,Cl 86mmol/lと低Cl血症を認めた.血液ガスは静脈血採血であるがpH7.429,PCO2 43.5mmHg,HCO3 28.2mmol/l,BE 3.4mmol/lと代謝性アルカローシスを示していた.肥厚性幽門狭窄症を疑い超音波検査を行った.図1aは肝臓を通してみた幽門像の長軸像である.胃前庭部には液状内容物があり無エコーになっている.幽門筋層が肥厚し長くなっているため等エコーな筋層が明確に描出されている(矢印).図1bは幽門部の横断像である.肥厚した幽門筋が低エコー帯としてみえており,ドーナツ状をしている.肥厚性幽門狭窄症と診断し,Ramstedtの手術を施行した.

コーヒーブレイク

お正月の東京

著者: 屋形稔

ページ範囲:P.282 - P.282

 東京の銀座は幼い頃からいつでもあこがれの街であった.小学生時代初めて東京見物にお袋に連れられて行き,二重橋や泉岳寺などにお参りした.しかし印象に残ったのは銀座の雑踏と多くの店,そしてご馳走だった.中学生以後は兄達が東京に住んでいたこともあり,しばしば上京しては銀座の街をうろついたりした.

 今でもうろ覚えであるがその頃のメロディに“銀座の街今日もくれて赤き灯燃ゆ恋し東京,恋し東京”というのがあったが全くその通りで,実体験の少ない分却って強く心に残るものらしい.大分前から「銀座百点」という小冊子を愛読している.宣伝雑誌のはしりの由であるが,時々他にない読みごたえのある記事が掲載されている.銀座好きにはこたえられない.

シリーズ最新医学講座 臨床現場における薬毒物検査の実際・1

エディトリアル

著者: 小宮山豊

ページ範囲:P.330 - P.332

松本と東京のサリン事件,和歌山の亜ヒ酸混入事件に薬毒物が使用された1).これらを契機に,平成10(1998)年度の救命救急センター等毒劇物解析機器整備事業により,高速液体クロマトグラフなどの毒劇物分析機器が73か所の救命救急センターに配備された.新たに薬毒物検査を開始する施設も増加している.2004年12月にも東京の地下鉄内でクレゾール原液による事件が発生するなど,最近約10年間に臨床検査現場などで救急搬送された患者の検体から薬毒物を検査する機会が増加した.自殺企図や薬毒物の誤嚥,事故・災害が発生した際,薬毒物検査を行う最大の目的は中毒患者の救命であり,適切な治療をバックアップすることである.特に大規模災害発生時には,多くの病院で様々な薬毒物検査実施依頼や相談を受ける必要を迫られる2).臨床薬毒物検査では裁証学的精密性の大切さを考慮しつつ,迅速性が重要である.そのためには,簡便かつ迅速な検査で臨床判断を助ける適切な情報提供ができる体制づくりが第一歩である.もちろん,これに続いて確認検査が必要となることはいうまでもない.

 中毒起因物質には何が想定されるのか? 日本中毒情報センターの受信報告(2003年)によると,問い合わせ件数は,洗浄剤などの家庭用品:274件,中枢神経用薬などの医療用医薬品:561件,一般医薬品:378件,殺虫剤などの農業用品:310件,きのこなどの自然毒:6件,ガスなどの工業用品:80件,乱用薬物その他:13件となり,その総数は決して少なくない1).また,服用薬毒物に関する情報が同時に持ち込まれることも多い.さらに臨床的判断による治療開始と薬毒物検査実施が同時進行となることがほとんどである.したがって,薬毒物検査を実施するわれわれは,「先生のお考えはどうですか?」と担当医に尋ね,臨床情報を入手する必要がある.その結果を踏まえつつ,ピットフォールを十分わきまえ,迅速に検査を行い,トライエージDOAなどの迅速検査結果が出た場合には,速やかに報告し治療に役立てる.広範囲な薬毒物迅速検査の実施による候補薬毒物の絞り込みとインターネットなどによる情報検索・情報発信を同時に行うことも有用である3)

試料採取から保存まで

著者: 眞名子順一 ,   秀島里沙 ,   長谷一憲 ,   穂坂直美 ,   田中絵梨 ,   小宮山豊

ページ範囲:P.333 - P.341

はじめに

 薬毒物検査において貴重な中毒症例の試料中起因物質を検査するに当たり,採取方法や保存法を間違えると得られる結果に大きな違いが生ずることがあり,これは薬毒物検査実施において留意せねばならない最も重要な部分の1つである.本稿では,薬毒物検査開始に際してまず必要とされる薬毒物検査用検体の採取保存法とその周辺での情報収集などについて臨床検査の現場から具体的に記載する.

 1999年,当時の厚生省から全国の高度救命救急センター8か所と65か所の救命救急センターに薬毒物分析用にHPLCと蛍光X線分析装置などが配備され,飯塚病院でも中央検査部で対応することとなった.フェノバルビタールなど汎用機器で分析できる薬物を除くほとんどの薬毒物分析は通常の臨床検査とは異なり,分離分析である点が従来の検査室になじみが少ない分析方法である.またその結果は治療方針を見極めるうえで非常に重要となる.このような薬毒物分析の特性から,飯塚病院における分析法確立を完了し,実際に分析結果を臨床に報告できるようになったのは約1年後のことであった.現在,分析開始から約5年が経過し,救命救急でのわれわれの役割が少しずつではあるがわかってきたように思える.日本全国の薬毒物分析を担当する検査部門や薬剤部門の状況は様々であり,臨床の現場での薬毒物分析への対応は,臨床医の考え方や保有する分析機器など個々の施設で異なっているのが現状である.一見,一様な対応は難しい状況にあるように思えるが,臨床情報と4月号および5月号に詳細が書かれる迅速分析法検査を利用して原因物質のふるい分けを行い,その薬毒物分析結果を他の臨床検査結果とともに迅速に報告することはどの施設でも可能である.そして,得られた情報を基に,自施設で分析できるものと,他の施設に分析を依頼するものなど,個々の施設の事情にあった対応を行うことが肝要である.救急救命センターがある多くの病院薬毒物検査室では迅速分析法に免疫学的測定法や呈色反応,確定・定量検査には機器分析を使用している.例えば,飯塚病院ではHPLCや蛍光X線分析装置,原子吸光光度計を使用し,少なくとも日本中毒学会がまとめた「分析すべき15項目」は分析できるようにしている.しかし,その他多くの原因物質の分析を自施設で行うことは,標準物質や保有する分析機器,事件性の有無などの理由により難しい.このような場合は薬毒物分析施設間のネットワークを利用し,日本中毒センター,高度救命救急センター,法医学教室,科学捜査研究所などに分析を依頼できるよう,地域でのネットワーク作りを日ごろから心がける必要があり,北部九州ではこの試みを進めている.この際,発生する薬毒物分析用検体の搬送のために,分析に適した検体や臨床情報の収集・保存を確実に行うことも臨床検査技師の重要な役割である.

基本情報

臨床検査

出版社:株式会社医学書院

電子版ISSN 1882-1367

印刷版ISSN 0485-1420

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